有職織物製作の推移と髙田家による伝承


    
鶴ヶ岡八幡宮伝来 二陪織物          

 鶴ヶ岡八幡宮御神宝装束復元模造

  
袿 (うちき) 夏の料


  原品は国宝 鎌倉時代

  白小葵地鳳凰文生二陪織物






  昭和初期、東京帝室博物館委嘱により
  髙田義男 復元製作











 平安時代に、律令制の弛緩にともなって、わが国の織物発達に重要な役割を担ってきた織部司も衰退していきました。平安時代中期には織部司の独占維持が不可能となり、そこに所属する織手たちは私宅においても製織を行う傾向が現れました。そしてその後、このような機織の私営化が、唐様から和様織物への転換を更に促したと考えられます。
 寛元四(1246)年に織部町が火災にあってから織部司の衰微が甚だしく、その隣側の大舎人町に住む大舎人が機織の技法を習って、貴族や武家のために織物を織っていきました。大舎人というのは中務省の大舎人寮に属して、宮中の雑用、宿直などをする役の者ですが、彼らはその後、座を結成して大舎人座として自立していきました。しかし最大の注文主である貴族や社寺から独立して営業することは困難で、さまざまな特権を保障してもらいました。
 室町時代貞和二(1346)年、山科教言が宮中内務省の内蔵寮の頭(くらりょうのかみ)に任ぜられてからのちは、山科家がその頭を世襲し、宮中の織物や装束の調進を管掌することになって、大舎人方の一部は内蔵寮御用として織物製作に携わりました。
 応仁の乱と、その後に続く戦国の乱世は、伝統的な公家の織物の製作環境に甚大な影響を与えることになりました。大乱終息後、難を避け離散した大舎人座の人々は、山名宗全の本陣であった西陣の跡地に機織を再開し復興しました。そして綾の独占製織を保証され、また天文十七(1548)年に、大舎人座のうち三十一家は足利将軍家の被官人となって保護を受けることとなりました。元亀二(1571)年には、三十一家のうちの六家が内蔵寮織物司に任ぜられました。これは井関、和久田、小島、中西、階取、久松の六家です。彼らのあいだでの品質についての管理は、互いに厳格で責任感の強いものでありました。このあと公家の織物の製作はこの六家を中心として受け継がれてきましたが、江戸時代に、六家の中に変遷消長がありました。江戸時代末期、井関家が二家となり、そのうちの一家を小島家が継ぎ、中西家のほかは、階取家が絶え、和久田家を三上家が継ぎ、久松家は小林家が継いで五家となりました。
 明治維新となり、宮中装束調進の管掌は宮内省が取り扱うこととなって、内蔵寮の管掌が廃止されました。このため御寮織物司の制も解消となりました。そこで小林家、三上家以外は廃業し、これら二家もその後転業されたため、有職織物製作の伝統も消滅の危機にせまり瀕しました。こういう事態となって、幾百年来、内蔵寮御用装束調進方として勤め、江戸遷都に従って京都から東京に移り、宮内省御用達として引き続いて装束調進に携わっていた髙田家が必要とする有職織物の調達に困難をきたし、折しも伊勢神宮の御遷宮をひかえて、御神宝装束製作のため、明治二十年、東京に織物工場を設け、優れた技術者が京都より派遣され、操業しました。
 いっぽう、冠羅(中世以降は無文羅)は京都の高木重助氏という織り手が製織しており、髙田家二十三代 髙田義男はその技法を参考とし、正倉院の羅を研究して大正時代末に東京の織工場にて文羅の復元に成功しました。(佐々木信三郎「羅技私考」の記述に実情と異なるところがある。文羅の研究および、復元は髙田義男個人が行ったもので、年代についても、大正十五年に髙田家・東京の織工場にて文羅製織に成功し、髙田義男の監督、指揮の下で、昭和二年より髙田家・京都織工場の製織技術主任喜多川平朗氏と共に正倉院宝物羅、錦、綾など調査、復元をはじめている)
 それから後にして、京都の川島織物の佐々木多次郎氏も文羅の製織に成功したことを知り、髙田義男は協同で研究することを提案しました。しかし佐々木多次郎氏は奉職する会社との関係から、それは実現しませんでした。なお、昭和四年の伊勢神宮御遷宮に際しての御神宝装束調進では、髙田義男による文羅の復活が認められて、がんらい文羅で製せられていたが、近世においては紗で代用されていた裳、翳、鏡の羅紐などを文羅の復活によって製作しました。
 すでに昭和二年、髙田義男は伝承されている有職織物の製作とともに、さらにその源流となっている正倉院宝物染織品をはじめ古代、中世、近世初期の古典織物の調査、復元を志しました。先ず正倉院染織の調査、復元につき指揮監督として、時の帝室博物館大島義脩館長より委嘱を受け、ついで平安時代以下の織物、衣服等の調査、復元にも取り掛かりました。
 その頃、たまたま惜しくも家業を止めることとなった、唐織によって名を知られる俵屋・喜多川家の伝統の断絶を髙田義男は残念に思い、その技量の優れた点を認めて、昭和二年より同家の平朗氏をこの髙田義男監督復元事業の髙田家・京都織工場製織技術主任に起用しました。
 なお、染色主任として際立った技術を持つ大江重次郎氏が迎えられ、織物の調査研究と並行して、古代の植物染料による染法を研究復活し、その成果を織物復元に応用しました。同時に、黄櫨染、紅花染そのほかの染色復活が宮内省に認められ、昭和御大礼に際して御装束調進に採用されました。
 戦災と敗戦後の社会の混乱は、髙田家の業務にも打撃を与え、有職織物製作の存続も危ぶまれる状態となりました。このような困難をどうにか乗り越え、有職の灯を絶えさぬことができ、現在に至っております。


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